手話から離れて、離れない。
様々なことが起こる日々、本当にお疲れ様です。
それでも手話を、という方に向けて。
今回は手話学習の過程での気持ちの変化や、疲れ、頭打ちになるかもしれない学習に対して、どのように振る舞ったのかを話したいと思います。
結論から申し上げますと、「手話から離れて、離れない」です。矛盾する一文ですが、正直なところです。
言語学習である手話の勉強。これを続けることが難しくなったり疲れてしまったり、学習を続けているがゆえ、苦しい時期を迎えるかもしれません。その苦しさは人それぞれ。手話をすぐ忘れたり、どうしてもろう者の手話が読み取れない、理由はわからないがモチベーションが下がっている…など。
講座や講習会、サークル、イベント、交流会、ろう者の真似したい手話など、手話を学ぶ環境が複数あると、 ”自分の中で手話があふれて” 飽和状態となり、手話の勉強が億劫になっていました。学びたい気持ちがかえって、わくわく感を失い身体が重くなり、あろうことかめんどくささが発生しました。以前の自分のフットワークが嘘のよう。それは手話学習のモチベーションが冷めたわけではなく、手話をしたいのに手を動かしたいのに身体がついていかない感覚。要するに、いっぱいいっぱいになっていた、ということです。
手話の魅力に追いつけませんでした。出かけるたびに出会う手話に惹かれると、それを自分のものとして昇華させる間もなく次の手話に出会ってしまいますから。とても、さばいていけませんでした。体力、資金、時間、振り返りを含めると、日々の生活で相当な割合を手話が占めることになりましたから。
そこで。以前にも書きましたが、あふれる出会いを欲張るのではなく、いくつか引いていきました。単純なことです。
しかし、一つ一つの出会いや学習に価値がありすぎて落とせないんですよね、優先順位をつけたり、選別することができない。恐るべし、手話(ありがたいかぎりです。)。あふれる出会いの数は人それぞれですが、自分の場合は、10ほど参加したいことがあったところ、5ほどに抑制しました。
たとえ、0にしても良いと思います。ただ、その場合、できれば、日々手話に触れることをお勧めします。手話動画などで。どのような動画でも良いと思いますが、自分は日本手話で話されるろう者の動画を選んでいました。手話に関わる映画やドラマも良いです。その手話を読み取れなくとも問題ありません。とにかく目に手話を触れさせるのが目的です。何も考えず、見るだけで十分です。
自分では気づいていなくとも、手話を見る・捉える目は必ず養われています。必ず。それまで身につけた手話を温めるため、それを維持させるために「手話から離れて、離れない」ということなのです。
よろしければ、参考まで。